なぜ私は働くのか

インターンの事前課題で、読書感想文を求められました。課題は選択式で、私は田坂 広志の『仕事の思想』を選択しました。

この書籍自体、非常に感動的で、考えさせられるものだったのですが、「はて、読書感想文?何を書けばいいのだろう」と小学生時代に何度も感じたような問いに戻るわけです。書評のようなものを書けばいいのかな?とも思ったのですが、こういうテーマを課題に出すところから想像するに、おそらく仕事相手が知りたいのは、「お前は何者か?」ということだろうと判断しました。確かに、批評を書いてみたり絶賛広告を書いてみるのもある種、私のテクニカルな部分を表現することになるでしょう。しかし、「思想」と名のつくようなそれこそ思想を課題にしている以上、それに沿うならば、書をネタに「私の思想」を表現するべきだろうと判断しました。
 若干ぎこちない雰囲気もありますが、せっかくなので書いたやつを公開してみます。

なぜ私は働くのか

 『仕事の思想』の中に「なぜ我々は働くのか?」という問いがあります。「働く」とは「仕事をする」ということだと思いますが、では仕事とは何でしょうか。必ずしも生きることに直結するわけではなく、必ずしも楽しいものでもなく、かといって社会の中で生きていくには不可避で、しかも1日のほとんどの時間を費やす対象、「仕事」。なぜ我々は仕事をするのでしょうか?自分自身にその問いを投げかけ、それに答えることで私の読書感想文としたいと思います。
結論からいえば、私は「生きるために」仕事をします。ただし、ここでいう「仕事」は、もしかしたら一般的な意味ではないかもしれません。私にとって仕事は、単純に「会社に属すること」ではありません。自分の人生を主体的にデザインし、それを実現するために社会へ積極的に働きかけることを「仕事」と認識しています。

自分の人生をデザインする

 私は、勉強するのが好きです。自分の知らないことを知るというのは、とてもドラマティックなことで、自分の価値観を変え、自分の中にもっている世界を変えていくことになります。自分が今現在知っている世界、身近な世界だけにじっとしていると、だんだんそれになれてしまって、生活することに飽きてしまいます。そこで、私の仕事には、いつも勉強するという要素が含まれています。たとえばサークル活動の運営においては、例年と同じ企画であったとしてもその目的や現状を再考し、0から立ち上げるつもりで企画をしました。前例はあくまで参考かきっかけに止め、メンバー自身に目を向けることでそこから主体性のある独自の活動の芽を見出すのです。自分たちで0から企画を立ち上げ仕組みを作るのは難しいことですが、そこではいくつもの価値観がぶつかり合い、混ざりあい、発見があって楽しいのです。
 私が仕事をするのにはもう1つの理由があります。それは、人生の可能性を広げるためです。人生の中には、様々な困難があります。経済的にうまくいかないこともありますし、仕事の中で悩むこともあると思います。そんなとき、自分の中の同じ世界でじっとしていてもなかなかうまくいかないものです。仕事は、そんなときに変化を起こすための仕掛けにもなります。新しいことを仕事として実行することで自分の中の世界に変化を起こし、それまでの問題を問題でなくしてしまうのです。たとえば、サークル活動の中でうまくいかないことはたくさんありました。新しいことをしてリスクを取りたくないメンバーは前例からの変化を嫌がります。しかし私はシステム開発のアルバイトをする中である程度のプロジェクトマネジメントの経験を積んでいました。その経験は企画に必要な条件を分析し、対策をとってメンバーの不安を解決することで状況を変えていきました。このように、仕事をするということは自分の可能性を広げることに繋がります。私は、自分の人生にバリエーションをもたせることで、可能性を広げ、困難を克服し、よりよいデザインへと変えていくのです。

社会へ積極的に働きかける

 自分の人生をデザインするということは、見方を変えれば、自分をとりまく環境をデザインするということにもなるでしょう。自分の属する社会へ働きかけることでそれを変化させ、より良いものへとしていく。私にとっての仕事は、理想の社会を作っていくことでもあります。例えば、私はこれまで生きてきた中で様々な理不尽な目に遭い、様々な理不尽な話を耳にしました。教育の現場において、学生はなぜ自分がその場で教育を受けているのか理解して説明できるでしょうか。教師は自身が行っている教育の意義を理解して学生を説得することができるでしょうか。これはマネジメントが無く制度のみで現状が維持されているために起こる理不尽なのではないかと考えます。マネジメントの不備は教育の現場に限らずいろんなところにあるように感じます。私にとっての仕事は、こうした仕組みを分解し、再構築することでより納得感のある社会をデザインすることでもあります。
社会へ積極的に働きかけていると、自分以外の人生へ干渉することにもなります。私は、こうしたお互いの価値を認め合ったり恩に報い合ったりということも仕事だと考えています。私がここまで生きてこられたのは、社会というシステムが私に居場所を与え、食物を与え、仕事をさせてくれて、生命維持装置として機能しているからでしょう。そこでは様々な人との関わり合いもありました。この大きなシステムの中で自分自身がそのシステムを構成する一因として、自分と他人の居場所を作り、価値の連鎖を生み出していく。それも重要な仕事であると感じ、積極的に社会との接点をもとうと活動しています。

 この本を読んで真っ先に思ったのは、実は仕事なんかより「なぜ我々は勉強するのか」という問いの方でした。社会人ならば「なぜ働かなければならないんだ」となるでしょうが、学生は「なぜ勉強しなければならないんだ」という問いでしょう。この問い自体、私はこれまで何度も自問自答しましたし、おそらくみんな一度以上考えることだと思います。実際、何度か友人から問われたことさえあります。初めは、学校から課されるいわゆる「勉強」の嫌いだった私は、「これは勉強じゃなくて遊びだ」などと憤りながら返していたものですが、最終的には「勉強」と和解(?)して、「生きるため」という、上記と同じ結論へ至りました。一度、友人の問いにそう答えたときは、「勉強しなくても生きられるじゃん」と笑われましたけどね。頭を働かせて能動的に生きなければ、私にとってそれは死に近いことなのです。一方で問わずに生きられたとしたら、どれだけ幸せだっただろうとも思ってしまいます。