「正解」と「納得」の間で

「正解」が欲しいのか、「納得」が欲しいのか。

この一年間、教授と非常に仲が悪かった。研究は、最高にストレスフルなものだった。納得のいく説明は得られずとも研究には責任が伴うので、仕事としてとにかくこなさなければならない。最低な一年間だった。*1
一年前、教授に対して様々な問いを投げかけていた自分は、教授から「お前はすぐに正解を欲しがっている」と言われ、議論を拒絶された。結果、「考えるな、勉強するな、じっとしていろ」という研究方針が与えられた。自分は非常に不満に思いながらも、教授という自分よりもはるかに多くの経験や成果を生み出してきた先輩の言うことであるから、自分の計り知れない理屈がそこにはあるのだろうととりあえず従うことにした。

最近はその教授とも和解が進み、それなりに納得いくまで話をするようになってきた。自分は研究上の話にまぎれさせつつ、この一年間のうっぷんをぶつけてみたり、納得のいかなかった事柄を追求してみたりして、この一年間募らせてきたトラウマやらコンプレックスを解決しようとしている。
一年経った今、「お前はすぐに正解を欲しがっている」と言ったあれは、本当はどういう意味だったのかと改めて問うてみた。すると「あれは今でも正しいと思っている。研究の過程を経験していないお前に何も答えやる気はなかった。」そう答えられた。自分は憤った。自分が欲しかったのは「正解」ではない。「納得」が欲しかったのである、と。過程が必要だというのならばそう答えればいい。そこに納得があれば、自分はもっと良い仕事をしただろうし、もっと充実した一年を過ごせただろうと憤った。

おそらく、ここにはいろいろな前提の違いがあるのだろう。言葉の意味や背景にもつ経験、理想としているものなど、様々な前提を違いとしているために様々な部分で衝突が起こっているように感じる。
とりあえず自分の考えとして「正解」と「納得」をどのように違うものとして捉えていたのかを整理してみたい。

「正解」と「納得」の違い

自分は、漠然とであるが、「正解」と「納得」の違いを以下のように考えている。

  • 正解・・・与えられるもの
    • ある条件内での問いに対する答え。責任は答えを与えたものの上にある。「答え」とはいっても実際の現場では、条件は変わっていくし不明な事柄や想定外の出来事などは起こり得るので、実際は机上でしかあり得ない。
    • 教授と自分の対話の中では、自分の問いに対する教授の答えはすべて「正解」となるだろう
  • 納得・・・与えるもの
    • ある条件内で問いに対する答えが得られたとき、その答えに対して自分も責任をもつということ。もしも条件が変わったり不明な事柄や想定していなかった出来事が起こる場合は、その条件に合わせて自分で答えを出し直す。
    • 教授が自分に与える「正解」に対して自分がそれを責任をもって受け入れるかどうか

本来、「正解」と「納得」は並列に置かれるような性質の言葉ではない。それがこの2つを以下で述べるような「何が欲しかったのか」という観点からみると、この対比が、教授と自分の間で理想とする関係像の違いを浮き彫りにしてくる。

教授と自分の求める理想の違い

確かに上記のように「納得」を「与えるもの」というように自分自信の行動として考えてると、本来「納得が欲しい」というのはおかしな話である。実際、客観的に考えれば教授との対話で手にできるのは、「正解」の方だろう。しかし、それでも自分が欲しかったのは「納得」で、より詳しく言い表すならば「納得のいく正解が欲しかった」のだ。
単純に「正解」が欲しいというのであれば、冒頭に記述したような「考えるな、勉強するな、じっとしていろ」というのも1つの「正解」であろう。研究室という組織においてトップである教授の出した1つの答えなのだから。自分も結局は「自分の選んだ研究室なのだから」とか「教授という自分よりもはるかに多くの経験や成果を生み出してきた先輩の言うことであるから、自分の計り知れない理屈がそこにはあるのだろう」とか言い訳を考えつつ、その「正解」を受け入れた。受け入れたということでいれば、渋々ながらも「納得」したといえるのかもしれない。言いたくはないが。*2
また、いったいどんな情報がどれだけ与えられれば納得するんだという問題もある。実際の研究の現場を経験していない自分が言葉だけで経験したのと同じ程度の情報を得られるかといえば、それは難しいだろう。
こうしたことを踏まえると、自分の欲しかったものは次のような「正解」の中でも「特殊な正解」になる。

  • 「これ以上はやってみないと分からない」という境界が明確な「正解」

教授はおそらく自分が研究内容について自分で調べたり現場を見たりすることなく研究成果だけを直接知りたがっていると思ったのだろう。しかし実際にそんなもの与えられても自分には前提とする様々なものをもっていないのでそれに納得することなどできはしないだろう。
自分が欲しかったのはそんなものよりももっとメタなもの、研究室という場がどのように運営されており、どのように活用することができるのかというようなことだったのだ。「自分が知らないものは何なのかが知りた方」という表現が近いような気がする。

研究室という場の運営

結局自分は研究に対して自主的に働きかける窓口を失い、研究をただの業務としてこなすしかなくなってしまった。1年経って下積みが終わり、教授は自分に対して様々なことを話すようになった。自分は1年間熟成させてきた様々なトラウマを解決しようと必死に問い続け、教授はそれに答えてくれている。
自分は本当に研究室で研究するということに憧れていた。様々な背景をもつ学生や教授と最先端の問いに立ち向かい、議論し、ある瞬間、様々な問いをスマートに解決する理論が立ちあがり、そしてその最先端が切り開かれるようなそんな世界に夢見ていた。だから、自分のようなみじめな思いをする人間を増やしたくはない。研究室には、ただ課題をこなす場所ではなく、正解のない問いに対して納得のいく解を与え続ける場所であって欲しい。
今回の問題は結局、研究室側に学生を受け入れる体制が整っていなかったということなのではないかと思う。教授は学生に対して課題を与える一方であり、先輩学生もそれを受け入れる一方で、新入生はただその場にいるだけで十分であり、それ以上されても許容できないということだ。研究室という場に直接アプローチしてくる自分のような学生がいた場合、それは「問いに答える」という与える側でもあり、「問いを受ける」という受け入れる側でもある必要がある。自分の研究室にはその両方を同時に満たす機能がなかったのだろう。
研究室のマネジメントに非常に関心がある。研究室の全体像が未だ見えていない自分に何ができるのかは分からないが、自分は意欲のある後輩に対応できる窓口でありたいと思う。

*1:そう言いつつも研究室では仕事とは別に自分の好きなこともたくさんしたので、「研究生活」という意味では楽しいこともあった。

*2:実際、受け入れながらも文句を言っている自分は、教授に甘えているのだと思う。