人よ、カリスマたれ。

 とある就活セミナーでとある有名らしい起業家の方のお話を聞いた。その中での問い

10年後の日本は良くなっているか?悪くなっているか?

30人近くの学生の中で「良くなっている」に手を上げたのは2人。その中の1人である私は、その理由としてこう答えた。

良くなっている。なぜなら、世代が変わるからだ。俺たちの時代だ。

 はたから見ると、笑えない冗談である。しかしこれが、大真面目なのであるから本当に笑えない。私は、日本に限らず10年後の世界は良くなっていると答えたい。論理的な根拠はない。世代は変わり、否応なく世界は変化する。そうであれば、良くなっていて欲しい。ただの願望である。
 そんな中で、私は人を見ていて思うことがある。特に私と同じ立場である学生に願わずにはいられないことがある。それは当然、自分自身にもそうであってくれと願っている。

変化を起こす人へ

 私は趣味で歌を歌う人間である。そんな趣味のもと、生まれた言葉がある。

彼らの言葉は、詩
彼らの声は、歌
彼らの人生は、音楽

私はこれまた趣味で大学などで開かれる講演会へ参加する。そこでは実に素晴らしい人々に触れることができる。彼らの言葉に、声に、生きざまに私の心は動き、動機づけられ、生きる活力となる。世界に影響を与える経営者、技術者、活動家らは、その存在が人を感動させる芸術なのだ。
 歌を歌っていると、よく思うことがある。「今この瞬間、自分に出せる全力の歌を歌わなければ、世界は動かない」小心者の私にとって、歌っている瞬間瞬間というのは、本当に不安なのだ。合唱という形態で大勢が歌っていたとしても、歌いだしの瞬間は「本当に歌い出しであたっているだろうか」「みんなちゃんと分かって声を出すだろうか」「息は続くだろうか」不安に思えば思うほど、体も心も硬くなる。しかしそこを思い切って歌い出すとき、世界は動きだし、その"瞬間"は音楽になる。
 すでに変化を起こしている人たちにこんな言葉はいらないだろうけれど、「芸術者たれ」と思ってしまう。あなたのその音楽を聞かせて欲しい。その物語を読ませて欲しい。そして私も、そう求められる人材でありたいと思う。

変化を依頼する人へ

 たまに、次のような言葉を耳にすることがある。

この世の中、どうにか頼むよ。

この言葉を言ったのは、学歴を持たない田舎の友人、リタイヤした老人、そして、文系の学生であった。ここで文系の学生が出たのは、「環境問題のような深刻な問題は、きっと誰か偉大な科学者がなんとかしてくれるだろうから別に気にしないけどね。理系のみなさん頑張ってください。」という文脈からである。
 「世界を変えてくれ」だって?簡単に言ってくれるなよ。私はそう思う。実際、日本の基礎研究に対する補助金が減らされるような議論がなかったっけ?科学者が研究室に閉じこもってばかりいてその価値をアピールするのを疎かにしていたと非難されなかったっけ?大学教育が無駄な人材を大量に排出しているっていう意見もなかったっけ?
 社会の様々な事柄はすべて繋がっていると思う。それが不変のものであるとは思わないから、そのメカニズムを明らかにするのは簡単なことではないだろう。ただ1つ主張したいのは、

あなたの行動も、世界の変化に繋がっているんだよ?

ただ会社員として働いていたとしても、それが経済を活性化させ、社会の人材育成への資金を生み出し、よりよい人材と仕組みが生まれれば、それは環境問題に貢献していると言えないだろうか。人はそれぞれのやり方で、世界の未来にかかわることができると思うのだ。
 変化を求めつつも何もできないと思ってしまっている人には、「カリスマたれ」と思う。あなたの行動が、その周りの人へ影響を与え、それが連鎖していったとすれば、個人の小さな活動はより大きな動きとなるだろう。

変化を望まない人へ

 一方で、変化を望まない人というのも確かに存在する。それは決して悪いことではないと思う。たぶん、普通そうだ。何もしなくても日々快適な生活をしていけるのであれば、ソファーに座ってゴロゴロするだろう。
 ただ、それはきっと、つまらないものだと思う。人と会わず、仕事をせず、きっと料理の味も何の意味も持たないだろう。その極限は、限りなく死に近いのではないか。
 しかし、普通に生きていれば、たった1人の人生だってドラマティックに変化する。生まれてからの20年はそれこそ劇的なものだし、もしも恋をして結婚をするなんてことがあれば、さらに10年は激動だろう。子供ができればさらに20年が変化の日々だろう。変化こそが定常であり、それを受け入れてこそ自然な自分の姿が現れてくるのではないだろうか。
 おそらく、変化を望まない1つの理由として、「変化を恐れている」ということがあるのではないだろうか。変化するということは、今よりも苦しいことが起こるかもしれない。そりゃそうだ。「一寸先は闇」とは言ったものである。あるいは、「安定を求めている」ということもあるだろう。大樹によりかかって生きる方が確実だ。けれど、樹は枯れる。だが闇は一歩進めば目が慣れる。必要なのは、自分自身を支える自分の体と、闇を見極める自分の眼だろう。もし恐れているのなら、私は言ってあげたい。「自分の世界をもっていいんだよ?」世界を自分のものとし、その世界を語っていい。私は世界にそうあって欲しい。きっとそう思えたとき、変化は不安よりも自分を生かす道になるだろう。

若造が世界を語るのは、愚かなことだろうか。

 以上のように、私はなんとも怖いもの知らずなことを書いたように思う。自分の欲望と願望と予測とが入り混じっている。たかが20数年生きただけの若造がこんなことを考えるのは愚かなことである。ましてや学生。社会に何の価値を生み出しただろうか。
 だけれど、若者こそが世界のもつ可能性の源泉だと思うのだ。時代は変化する。世代は変化し、世界は変化する。人がただそれ自身であるだけで、社会は激動するのである。人はすべて、世界を自分のものとし、それぞれの世界を魅力的に語るべきである。そうすればきっと、未来にあるのは魅力的な世界であろう。