性について

 社会起業を考えている学生たちとお酒を飲みました。ものすごい価値観や行動力に圧倒されるものを感じ、自分の力のなさを再確認してしまいました。
 そんな中で話を聞いていると、意外と性について問題意識を持っている人がいるもんだなぁと思いました。

性教育については、文化的な背景や官能学*1として様々議論されるべきだろうという話をしました。猥談ではなく、官能学的議論です。
 一方でホモセクシャルトランスジェンダーについては、本当に深刻な社会的問題であるということが分かりました。しまいには飲み過ぎも関係してか、古い「不安の記憶」を思い出してしまいました。飲み過ぎてあまり記憶がないのですが、帰りはなんだか失礼な形で別れてしまった気がして、どうも気がかりです。

性の社会問題

 話をしてくれた学生の中には、実際に性の社会問題に対して行動を起こしている方がいました。性に対して悩み、自殺をする人は数多くいるそうです。また、そうした方々を受け入れてくれない病院や不動産は数多くあるそうです。電話相談などのシステムに関しても、やはり内容が微妙な問題なだけあって、うまく機能できていないという現状もあるようです。政府に対してアプローチをしたら、話をしている間に居眠りしたり携帯電話をいじったりされてムカついたというお話も聞けました。また、データの有無で対応がかなり違うということも聞けました。
 ただただ想像したこともなかった話を聞くばかりで、自分の中でこの問題を上手く整理できていないというのが今の状態です。話を聞きながら自分に何ができるだろうかと考えて考えましたが、所詮は経験もないちっぽけな学生。大したアイデアは湧きません。中途半端です。自分の力のなさが悔やまれました。しかし彼らは、これからも活動していくのでしょう。いつかまた道の交わるときを考えて、私は勉強します。

自分の性に対する不安

 飲みすぎもあったようで、酒の席でかつて自分が不安に思っていたことを思い出してしまい、中途半端に話を始めてしまったように思います。私の性別は「男」です。恋愛の対象は「女」です。そのことに対し今ではそれなりに自信をもっています。ただし、昔はそれに対し不安に思っている時期がありました。それはたぶん、ジェンダーとして問題になるほどのものではなく、ただ思春期に直面する自己同一性の問題だったのかもしれません。しかし、不安に思っていたことは確かなのです。

自分はバイセクシャルか?

 私は男とセックスしたことはありません。したいとも思いません。ただし、バレエやフィギュアスケート、その他スポーツマンの体をみたとき、その肉体美に対して官能的なものを感じる感覚はあります。はっきり言って、その筋肉の美しさに対して「抱かれたい」と表現することもできるかもしれません。当然、女性に肉体に対してもまた、そこに魅力を感じます。詳細な描写は控えますが、他人の肉体に対して自分の中からは様々な感覚や言葉が生まれてきます。性的な欲求なのか理性的な欲求なのか自分でも分かりません。「体」を芸術としてのデザインと見ているのかもしれません。生物学としての知的欲求も在るように感じます。ただ、湧きおこる感覚に理性的な欲求を感じるがゆえに、今の私は自分の性的対象からホモを意識的に切り離すことができています。
 思春期の頃は、それに対して不安を感じていました。「自分は科学者として生きている」と豪語し、あらゆる立場から公平であろうとしていた当時の私にとって、性別の境界は問題ではないはずでした。しかし、やはり孤独感や「自分は異常なのか?」というような不安はありました。恋をする相手は女であるけれど、友に対して単純な関係性以上の感覚を感じてしまうことに対して、それが親愛の気持ちであるのか、性愛の気持ちであるのか、不安になるところは確かにありました。

自分はトランスジェンダーか?

 私はいまでこそ自分の趣味をそれなりに大きな声で言えますが、結構乙女チックな趣味があります。初めていったディズニーでは、自分でも驚くほど、彼女よりも大はしゃぎしている自分がいました。最近では、「動物園へ行きたい」と仲良くなった女の子を相手に熱く計画を立ててしまいました。ファッションに対しても、自分で着飾ることはナンセンスだと思うけれど、やはり女物の服装やバッグ、小物などをうらやましく思うことはあります。思えば昔から、女の子と混ざっていたような気はします。小学生のころは交換日記をやらされそうになったり、少女向け雑誌の付録を交換し合ったりしていたこともありました。中学生のころも文化系の部活をしていたせいもあるでしょうか。女の子に混ざっていることは自然なことでした。
 それが高校生になって、やはり自分の行動が男らしくないように感じ、どういう行動が自然なのか、必死で考えるようになりました。それは単純に、習慣や行動様式についての「男らしさ」「女らしさ」という話であって、トランスではないのかもしれません。しかし当時は、真剣に無理を通してでもという気持ちで考えていました。今では自分の中の女らしいしぐさや女々しい心理状態を意識したとしても、それは自分の中のパターンであって、ある種の個性みたいなものだと認識しています。

社会問題として直視する

 以上のような背景を持っていて、今回の出会いは、忘れかけていた不安を思いだすきっかけになりました。それはそれで、重要なことなのかもしれません。ただ、なんとなく、その不安を目の前の彼らに打ち明けてしまいたい衝動に駆られたのは、良くなかったように思います。自分の孤独を知って欲しい。自分の孤独に寄り添って欲しい。それは一方的な要求のように感じました。彼らは社会問題として真剣に立ち向かっているのに、私は独りよがりで中途半端。お互いの社会に対するビジョンを話し合って、素敵な関係を築けていたのに、あの場所で自分の不安や焦燥が首をもたげてきたことは残念でなりません。結局私は、逃げるように帰ってしまいました。それは逆に彼らの心を踏みにじるような行為だったのではないかと、今不安に感じています。
 しかし逆にいえば、自分のこうした不安は、性に対して問題を抱えている方々が感じているものよりずっと小さなものなのだと考えられるかもしれません。私も今まで生きてきた中で命を断とうと思ったことは何度かあります。それだけの孤独と不安が、そこにはありました。私がマネジメントを勉強しているのは、「人の生きる社会のため」という問題意識も働いています。それと同様に、性に関係する問題は、社会的な問題としてしっかりと認識すべきだと感じました。。セクシャルマイノリティーは、決して「少数」の問題ではないのです。社会が正当性をもつための重要な課題なのです。
 あまりまとまり無い文章になってしまいました。もしかしたら失礼で不適切な内容かもしれません。ただ、自分の意識をブログという形だけでも公にできたことは、何かしらの価値があると信じたいです。


※追記

再会したら、普通に「おもしろかった。イジられキャラだよね?」とか言われた。悲しむべきか喜ぶべきか酔っぱらいには分からない。

*1:「学問」とつければ高尚になると思ってます(笑