私の夢見る研究

 私は小さなころからずっと、研究室での研究活動に憧れていました。始めは試験管を振っているようなイメージだったかもしれません。世界に対する深い洞察に憧れていたような気もします。それはいつしか「知の最先端を切り開く場所」や「世界を変える火種を起こす場所」など過激なイメージへと変わっていきました。今では大人しくなって、「研究室」と一言で言っても大学や企業では目的が違うようだなぁ*1とか、少しシンプルに「学生が自分の理想とするテーマを探すところ」という認識になっていますが、それでも、今年度から始まる自分の研究室生活には心が躍っています。
 新年度が始まって1ヵ月が立ちます。いろいろな転機もあったように思います。ここで少し初心に返って気持ちを整理するつもりで、自分の夢見る研究のようなものを残してみたいと思います。

ヒューマン・ファクター

 私の入った研究室の専門分野は、「ヒューマン・ファクターズ」です。きっとピンとくる方はあまりいらっしゃらないでしょう。確かに物理や化学と比べると歴史の浅い分野です。しかし、産業が組織として行われ、「企業」という概念が生まれたそのときから、この分野は存在し続けています。
 では、「ヒューマン・ファクターズ」とは何か。この言葉を単純に訳せば「人的要因」でしょう。この分野は、組織や工場のような生産システムとその中で働く「人」とがどのように影響を及ぼし合っているのかということを考えてきました。その中でも特に話題に上るのが「ヒューマン・エラー」です。簡単にいえば、人がエラーをするとその生産システムは不調となるわけです。では、そのエラーを起こす原因はどこにあるのか。どのようにしてエラー行動へ繋がるのか。理想的な人とシステムの関係はどのようなものなのか。そうしたことを考えていきます。
 「ヒューマン・ファクターズ」という言葉はあまり耳にしなくても、「人間工学」という言葉は聞いたことがあるかと思います。実はこの2つの概念は同じものです。聞いた話によると歴史的に「ヒューマン・ファクターズ」はアメリカで、「人間工学」はヨーロッパで発展したらしいです。しかし、この2つの言葉を聞いて連想するものは少し違うのではないかと思います。どちらの概念も「人とシステムの調和」を目指すものですが、どちらかというと「人間工学」の方は人の体に合った椅子やペンといったような「モノのデザイン」を連想しがちなのではないでしょうか。一方で「ヒューマン・ファクターズ」の方は、聞いたことのある人にとっては工場内の安全であるとかシステムの信頼性といった「安全工学」「信頼性工学」というような形で話題に上るかと思います。概念としては同じ「人とシステムの調和」をテーマとしていますが、使われ方が微妙に違うのが実際なのです。
 さて、「ヒューマン・ファクターズ」がシステム内の安全・信頼性を中心に扱うというところで、その扱うシステムにも様々なものがあります。かつては、工場の中での安全管理活動が中心に扱われていたようです。工場の中での事故は大きな損失を生みやすいですし、人の命に関わる大事故にもなり得ます。指さし確認や声の掛け合いなどの基本的なところから、工場では安全のための様々な取り組みが行われています。そして、私が研究のテーマとして扱っているのは、医療現場の安全管理活動です。医療の現場は人の体を直接扱うため、そこでのエラーは人命に影響を及ぼしやすくなります。しかし実際は、医療現場は忙しい上にいくつもの基準・手順やルールのある非常に厳しい作業現場であるにもかかわらず、すべての医療現場で高機能なシステムを導入するわけにもいきません。また、エラーをなくすためにすべてロボットによる自動化をすればいいかといえば、これまで看護師の頑張りによって支えられてきた人間味・暖か味のある医療サービスはなくなってしまいます。そうした実情を踏まえた上で、単純に高価な機械を導入するような方法ではなく看護師がもっと働きやすくなるような形でサービスの安全性や信頼性、そして安心を作りだそうとしています。

人を幸せにする「マネジメント」

 私は個人的にずっとマネジメントのことを考えて生きてきました。小さなころはなぜ子供は筋の通らない大人の主張に右往左往しなければならないのか疑問に思っていました。大きくなってからはメンバー1人1人がそれぞれ最高のパフォーマンスを発揮しつつ、全体でも良い仕事へつなげるにはどうしたらいいかということを考えてきました。「マネジメント」は人の集まりがただの集まっただけではなく、組織として何か目的をもって行動するための活動です。組織の中の人間を活かし、その上で組織の目的を達成し、組織の周りにある社会へ利益を生み出す、そのためにはマネジメントという機能が組織の中には必要になるのです。
 なぜ私は「マネジメント」を考えるのか。それは単純に自分が組織というものになかなかなじめなかったからなのかもしれません。小さなころは大人が子供に対して行うマネジメントに納得がいかなかったから。少し大きくなってからも自分の正しいと思ってやることがマネジメントの権限をもつ人間に納得されなければそれは生きないということが理不尽に思えたから。そうでなくても、人間関係というものはコミュニケーションのレベルから難しいものです。そういった困難さから言語学に傾倒していた時期もありました。論理や言葉の表現法だけではなく、音楽や絵画のようなデザインにも意識は向きました。それらすべての収束した先が、「マネジメント」であるように思います。*2結局は、自分の感じた苦しみや孤独を他の誰かが味わわないようにしてあげたいというのが根源的な動機なのかもしれません。苦しみもしたけれど私を助けてくれた社会がある。私はその社会に孤独な社会であって欲しくはないのです。システムとして社会を、人間を進化させるために私はこの分野を研究しているのです。
 このように私のマネジメントへの動機がとても個人的なところにあるために、私のマネジメントとしての意識もより人間に近い現場へと向きます。実際はプロジェクト・マネジメントのように計画を遂行するための技術やファイナンスのようにお金の流れを管理するようなマネジメント技術もあります。しかし、私はマネージャーとして、組織のメンバーがそれぞれの強みを発揮できる仕組みをつくること、それを1番に考えていきたい。そのために組織の中の「安心」や「安全」を考えていきたいのです。もちろん、ある程度のストレスはむしろ集中力を高め、エラーを下げたりパフォーマンスを上げる方向へ働きます。しかし実際はそれだけでに留まらず、「指示の意味が分からないのに何かやらなければ」や「なんでこの作業はあるのだろう」という不安、「アレもコレもソレもやらなきゃ!もう意味分からない」というような現場はあると思います。そこへ少し、ヒューマン・ファクターズの技術が入っていければ、現場環境は改善し、労働者としても組織としても良いパフォーマンスを発揮できるのではないかと思うのです。

オフィスの中へ、ヒューマン・ファクターズを!

 上記でも少し触れたように、ヒューマン・ファクターズや工学そのものは産業の中心が移っていく中でその対象を変化させてきました。かつて形ある製品を作ることが産業の中心だったころは、ヒューマン・ファクターズはも工場や製品のデザインをその対象としてきました。現在、産業の中心はサービスへ移ってきています。工学それ自体もどのようにして新しいサービスを作りだすかというところへ意識が向いてきているように思います。私は、ヒューマン・ファクターズももっとサービス業へ移っていく必要があると感じています。今は安全への意識が高い医療が中心かもしれません。しかしいずれは、この概念がオフィスの中へと浸透していければ、ブラック企業などという言葉はなくなるのではないかと思うのです。
 では例えば、オフィスの中のヒューマン・ファクターズとはどのように考えられるでしょうか。これまでの研究の定石として、インシデント分析という作業があります。これはハインリッヒの法則という「1件の重大事故の背景には29件の小さな事故があり、その裏には300件の『ヒヤリとする』・『ハッとする』程度のエラーが隠されている」の考えを基にしています。「インシデント」というのは、この「重大事故とまではいかない事象」を指し、こうした小さな「事故の芽」を分析して、その原因となり得る原因予備軍、「要因」を排除するという行動をとるのです。確かに工場や病院には「安全管理者」という役職がありますが、通常のオフィスにそのような役職はありません。ですが、マネージャーがメンバーとコミュニケーションをとりながら、不安の要素を分析し、改善していくことはできるのではないでしょうか。個人においても誰かに作業を頼むときに口だけで説明するよりマニュアルを作ってそれを使いながら説明した方が作業者は安心できるでしょう。すると、読みやすいマニュアルはどんなものか、明確にしておくべきところは何かというところへ考えが進みます。また、オフィスの中のエラーがどんな影響を出しているか調べることができれば、現在もてはやされているような長時間労働による生産性の低下をより論理的で構造化された形で説明できるかもしれません。
 私はいつか、オフィスの中の安全・安心のための研究をしたいと考えています。私は、その先にどのような未来を夢見ているのか。私はただ漠然と「人間、1人1人がそれぞれの仕事と生活と人生を謳歌できればいい」と考えています。女性であるというだけで育児や介護を強制されるシステム。男性であるために育児休暇を取りづらかったり必死で家計を支えなければならなかったりするシステム。障害をもっていたり何かしらのマイノリティーであるために苦しまなければならないようなシステム。社会はまだシステムとして未熟で、その要素である人間の特性すべてに適応できていないように思えます。社会は、自身が生み出す政治や経済、環境の変化などにも柔軟に対応し、その内部である人間を生かしていかなければ、そこに在る価値はないでしょう。もちろん、現在の時点でも原始部族の時代に比べれば格段にいいシステムであるからここまで発展してきたのだと思います。しかし、「まだ」です。まだ、いいシステムになる余地を残している。私はその可能性のために自分の人生をかけたい。

人生、うまいことばかりじゃないさ

 ここまで、長い文章を書いてきたように思います。大言壮語も吐いたかなぁという気もします。しかし現実の私は、ずっと夢だった研究室に所属できたにもかかわらず、その研究室と良い関係にありません。成績も悪く、研究室へ行けば「ダメなやつ」と刷り込まれるばかりです。少し鬱だったのがこの数カ月でした。
 一方で、私はこの1年、ベンチャー企業で長期のインターンをしようとしてます。つい先日、そのための面接を受けてきました。私はこのインターンを、私のいまやっている医療現場の研究から、いつかやりたいオフィス現場の研究へと繋げるものだと考えています。面接では志望動機や過去の経験など自分のことを話します。その中で、この数カ月ただ頑なに自己を守るばかりだった自分の心が、息を吹き返したように思います。私は決して優秀ではないけれど、やりたいこと、そしてやれることはたくさんあるのだと思い出すことができた気がします。
 以上のことは、ただの夢想。私の見るただの夢です。ただ、夢や理想を想うと、心が躍ります。興奮します。そして、楽しくなります。生きている実感として、夢はより現実のものです。私は生きるために、これからも夢をみて、勉強し、研究し、働いていくのだろうと思います。

*1:大学の「研究室」は教育の場所。企業は「研究所」で製品開発を目指すところ。

*2:加えて分野としての「マネジメント」が、物理や化学のような専門領域の垣根を越えてそれらを結びつける、非常に重要で価値があって面白そうな分野だと思ったという理由もあります。